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精進池近くにある元箱根石仏群の一部です。約700年前、鎌倉時代から室町時代前期にかけて数多くの石仏や石塔が造られました。これらの石仏・石塔の多くは、中世の地蔵信仰を物語る遺物として国の重要文化財に指定されており、周辺一帯も同様に国の史跡に指定されています。(写真提供:photolibrary)
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小田原の“なりわい”文化の発信拠点2025年8月、耐震補修工事を経て小田原宿なりわい交流館がリニューアルオープンします。
小田原宿なりわい交流館は、かつて東海道の宿場町としてにぎわった小田原のまち並みにたたずむ文化拠点。建物は小田原の典型的な商家の造りである「出桁(だしげた)造り」の旧網問屋を再整備したもので、2022年には国の登録有形文化財にも指定されました。スタッフによる30分まち歩きが毎日開催され、東海道小田原宿の“なりわい”が息づく周辺地域の魅力や周辺のグルメスポット、物販店など小田原の魅力をたっぷり紹介します。 -
弥生時代後期の環濠集落(周囲に溝を巡らしたムラ)で、ほぼ完全な形で出土した国指定史跡。遺跡は埋め戻されており、神崎遺跡公園として整備されています。公園には環濠等の位置表示や遺跡の説明板があり、散策しながら歴史を学ぶことができます。
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期間限定で公開される遺構です。鎌倉時代に市街が大きくなるにつれ、だんだん墓所が不足したことから、崖に横穴を掘り内部に納骨・供養をした場所が「やぐら」です。このまんだら堂やぐら群は約150穴あり、とてもきれいな状態のまま保存されています。展望広場からみるやぐら群はとても神秘的できれいです。
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名所の多い宿場町として、江戸時代大いににぎわった大磯宿。約1.3kmの道筋に、66軒の旅籠と小島・尾上・石井の3つの本陣が置かれました。
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座間警察署東側の段丘下にある境内の池の奥から湧き出す湧水。現在は、池を潤す水として利用されています。
心岩寺では、境内から土器片が発見されたり、東側の台地上でも縄文中期の遺跡が発掘されたりと、先史時代から周辺住民の貴重な生活用水として利用されていたといわれています。
また、湧出量が豊富であったため、寺の西側にあった後背湿地の水田にも利用されていたといわれています。 -
早野にある戒翁寺近くの御堂山(おどやま)に造立されている、土地の人から「殿様の墓」といわれる石造五輪塔(ごりんとう)です。
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石観音堂は、寛文5年(1665年)に明長寺の僧弁融によって開かれた天台宗明長寺の境外の仏堂で、本尊は石造りの如意輪観世音菩薩です。
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川尻石器時代遺跡は縄文時代中期から晩期にかけての集落跡です。様々な種類の遺物とともに敷石住居などの礫石を多用した遺構もあります。
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北条氏による建立と言われています。境内には蛙石(かわずいし)と呼ばれる自然石があり、小田原の危機の際には鳴き声を発すると言われています。
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この橋の袂のある石碑の向かいより、大山道に入ります。
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鎌倉から藤沢方面へ通じる切通道で、中世のやぐらなどがあり、狭く急峻な古道の様子がよく残されています。
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源頼朝墓と伝わる石塔があり、かつて頼朝を弔った法華堂(墳墓堂)の跡地と推定されています。付近には北条義時を弔った法華堂の遺構も確認されており、合わせて国指定史跡に指定されています。
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箱根旧街道は江戸時代の初めに江戸幕府が整備した東海道の一部で、箱根峠を挟んで箱根町側を東坂、三島市側を西坂と呼びました。西坂の石畳は1680年に敷かれたことが資料からわかっています。もともとは雨が降ると脛までつかる泥道となり、旅人たちを苦しめてきました。そのため石畳が敷かれる以前は自生する細竹(箱根竹)を敷いていました。この作業は奥伊豆地方の住民が税の一種として負担していたものの、竹は腐ってしまうため頻繁に敷き替えを行わなければならず、住民にとってはかなりの負担でした。この負担を軽減するため江戸幕府は石畳の工事を行いました。この石畳を歩きながら、この道を旅した当時の人たちに思いを馳せるのも楽しいかもしれませんね。
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かつては排水路を横断するように架かっていた橋ですが、昭和6年頃に水路が埋められたため、現在は親柱だけが交差点脇の歩道に保存されています。
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県内でも珍しい前方後方墳の塚越古墳があり、古墳頂上に公園のシンボルツリーである桜の木があります。見晴らしも良く、市民の憩いのエリアとして幅広く利用されています。
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史跡田名向原遺跡旧石器時代学習館(旧石器ハテナ館)は全国的にも数少ない旧石器時代をテーマにした施設です。史跡田名向原遺跡は、発見された旧石器時代の住居状遺構から、人類の定住化の歴史を語る重要な遺跡として保存されており、平成11年1月に国の史跡指定を受けました。約2万年前の建物の跡がみられるのは、日本でここだけです。
また、旧石器ハテナ館では旧石器時代を中心に縄文土器や古墳の副葬品などを展示しており、野外展示では旧石器時代の住居状遺構、縄文時代の竪穴住居、古墳時代の小円墳が復元され、歴史や文化財について学ぶことができます。勾玉・土器・石器作りなどの体験事業を行っています。 -
北条氏の四代・氏政と弟の氏照の墓所がある場所には、「幸せの鈴」を手に願掛けをする人が後を絶えません。幸せのパワーに満ちたスポットとして地元に知られています。(写真提供:photolibrary)
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能見堂は1661年~73年の間に領主であった久世大和守広之が再興した擲筆山地蔵院のことです。
元禄時代、中国からの渡来僧、心越禅師が故郷の景色を偲んで、ここから見た金沢八ヵ所の勝景を漢詩に詠んだのが金沢八景の始まりと言い伝えられています。 -
昔から村人から信仰の厚い不動さまであり境内の滝不動は谷津川の水源地となっています。
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初代歌川広重によって描かれた「東海道五拾三次 平塚・縄手道」の浮世絵はこのあたりからの眺めと言われ、背景に高麗山(こまやま)、手前に東海道の縄手道(畦道)と花水川が描かれています。
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平安時代後期の武将源義家(八幡太郎)が見つけ詞に詠んだ山桜があり、その後「江戸見桜」と称されています。その他子どもたちがターザンごっこをしたといわれる「ターザンの木」、川崎市の緑地になった「末長熊の森緑地」があります。
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「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」、歌人松尾芭蕉が故郷伊賀に向かう際に見送りにきた門人との別れを惜しみ、この八丁畷の地で読んだ句です。芭蕉が句を詠んだ地に建てられた句碑は少なく、大変貴重なものとされています。
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藤沢橋交差点の近く、国道467号線沿いの高台にあります。通称は帯解観音と呼ばれています。(写真提供:藤沢市ふじさわ宿交流館)
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登録有形文化財に登録されている戦前の藤沢を代表する呉服商です。
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発掘調査により、今から約1700年前、弥生時代から古墳時代の過渡期に造られた古墳群であることがわかりました。南関東における出現期古墳のあり方およびその時期の社会を考える上で重要と評価され、平成17年7月に国史跡に指定されました。見学の際は歩きやすい靴でお越しください。
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用水を供給するため、昭和16(1941)年に造られた久地円筒分水。
平成10年に国の登録有形文化財となった久地円筒分水は、サイフォンの原理を応用して平瀬川の下をくぐり、円筒の切り口の角度で分水量を一定に調節するしくみです。(写真提供:photolibrary) -
小原宿本陣は、神奈川県下26軒あった本陣で現存する唯一の建造物で、定紋のついた敷居の高い玄関がある、純日本風の豪壮な建物です。平成8年2月13日、県重要文化財に指定されました。現在の建造物の建造年数は定かではありませんが、約200年経過しているものと思われます。
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作家で小田原出身の牧野信一の作品の一節が刻まれた石碑です。
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約700年前、鎌倉時代から室町時代前期にかけて数多くの石仏や石塔が造られました。これら石仏・石塔の多くは、中世の地蔵信仰を物語る遺物として国の重要文化財に指定され、また、周辺一帯も同様に国の史跡に指定されています。(写真提供:photolibrary)
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秦野市の中央部を流れる水無川の中流域に位置し35基の古墳が発掘され、6基の古墳を保存しています。7世紀後半に造られたもので、すべてが円墳で古墳群としては県内でも最大級です。
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鈴鹿明神社東側の段丘下にある龍源院の裏手から湧き出す湧水。この湧水は、近くの鈴鹿明神社から縄文後期の遺跡が発掘され、この遺跡の水場が龍源院湧水のみであることから、鈴鹿遺跡の住人が生活用水として利用していたといわれています。
明治24年頃から第二次世界大戦頃までは、わさび田として利用されており、現在もその名残をとどめています。
また、明治35年以降には、養蚕で得た生糸の撚糸(ねんし)器具や、精米器具を動かすための水車の動力源としても利用されていました。 -
善波峠は秦野市と伊勢原市の境にあります。東京都の赤坂御門から秦野を経て矢倉沢の関所を越え、静岡県沼津市にいたる矢倉沢往還が通っていました。
参勤交代でにぎわう東海道の脇街道で、物資の輸送や富士・大山への参詣路として、昭和初期に善波隧道が完成するまで、この峠道が利用されていました。 -
江戸時代中期(18世紀前半)頃に上和田地区の久田(くでん)集落に建てられ、市内に現存する中では最古の家屋である旧小川家主屋。そして江戸時代末期(19世紀中期)頃に下鶴間地区の公所(ぐぞ)集落に建てられた、養蚕農家の旧北島家主屋という、二棟の古民家を移築復元しています。また、古民家の周囲には草花や樹木が多数植えられ、季節毎に違った景色を楽しむことができます。
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藤沢市ふじさわ宿交流館では、東海道五十三次や藤沢宿に関する資料の展示やご案内、講座等のイベントも開催しています。藤沢宿は江戸時代に整備された東海道の宿場町です。日本橋から数えて 6 番目の宿場町に位置し、その範囲は遊行寺坂の江戸方見付から京方見付までの間の12里17間(約 1340m)です。時宗総本山である遊行寺を中心に、周辺には往時の面影をしのぶ社寺が多く残されています。また、明治期になると旧藤沢宿地区は問屋街に転身して、地の利を活かして流通の中心地として賑わいをみせます。現在も明治・大正期に建築された店舗や蔵などが歴史的建造物として点在しています。
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モース記念碑は、日本近代動物学発祥に尽力したエドワード・S・モースを記念して建てられた記念碑です。
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別名、惣左衛門本陣と言われた181坪の建物で、幕末には14代将軍家茂が京に上る際に宿泊しました。
明治23年(1890年)、詩人 佐藤惣之助がこの家で生まれ、大正から戦前にかけて活躍しました。 -
大正から昭和にかけ歌人・小説家として活躍した岡本かの子を記念し昭和37年に制作された《誇り》の台座には、「この誇りを亡き一平とともにかの子に捧ぐ 太郎」という制作者で長男の岡本太郎の銘が刻まれています。
また、かの子の業績を讃える亀井勝一郎の文を川端康成の書によって刻んだ碑もあります。 -
園内には縄文集落の雰囲気を再現し、土葺きと笹葺きの竪穴住居2棟を復元しているほか、周辺には竪穴住居廃絶後の窪地なども復元しています。
また、集落の終末期に登場する敷石住居のレプリカも屋外展示しています。
公園内の管理棟には小スペースながら勝坂遺跡出土品やパネルの展示を行っています。