お出かけスポット検索
神奈川県への旅行・おでかけに役立つ観光スポットや遊び場情報を探せます。
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江戸時代は文字どおり大きな石橋があり、脇街道の「溝の口・二子宿」として繁栄していました。
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北条氏の四代・氏政と弟の氏照の墓所がある場所には、「幸せの鈴」を手に願掛けをする人が後を絶えません。幸せのパワーに満ちたスポットとして地元に知られています。(写真提供:photolibrary)
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旧東海道藤沢宿のにぎわいの拠点で、旧東海道6番目の宿場町であった藤沢の歴史や文化に触れ、人々が交流する場として2016年に開館しました。散策の際の休憩のほか、郷土資料の展示、藤沢宿のジオラマや当時の宿場を再現した3DCG体験できます。また、年間を通じて寄席などの催しをお楽しみいただけます。
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約700 年前鎌倉時代終わりから室町時代前期にかけて、旅ゆく人々を救う仏として信仰された地蔵菩薩を祀る多くの石仏や石塔が造られました。国の重要文化財に指定されています。
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精進池近くにある元箱根石仏群の一部です。約700年前、鎌倉時代から室町時代前期にかけて数多くの石仏や石塔が造られました。これらの石仏・石塔の多くは、中世の地蔵信仰を物語る遺物として国の重要文化財に指定されており、周辺一帯も同様に国の史跡に指定されています。(写真提供:photolibrary)
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登録有形文化財に登録されている戦前の藤沢を代表する呉服商です。
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「陸軍桟橋(西浦賀みなと緑地)」は、ペリー来航や咸臨丸出帆など歴史の舞台となった浦賀港を一望できる公園です。港の東西を結ぶ渡船の乗り場も近くにあります。
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座間警察署東側の段丘下にある境内の池の奥から湧き出す湧水。現在は、池を潤す水として利用されています。
心岩寺では、境内から土器片が発見されたり、東側の台地上でも縄文中期の遺跡が発掘されたりと、先史時代から周辺住民の貴重な生活用水として利用されていたといわれています。
また、湧出量が豊富であったため、寺の西側にあった後背湿地の水田にも利用されていたといわれています。 -
川崎宿は江戸時代に東海道五十三次の一つとして栄えました。東海道かわさき宿交流館は、その歴史と文化を活かした街づくりの拠点施設として、川崎の歴史や宿場を学べる展示を行なっています。
また、旅人の衣装を着て記念撮影ができるコーナー等があり、街歩きの方が立ち寄るランドマークにもなっています。
定期的に落語、講談等の古典芸能を開催し、川崎の魅力を発信しています。 -
石観音堂は、寛文5年(1665年)に明長寺の僧弁融によって開かれた天台宗明長寺の境外の仏堂で、本尊は石造りの如意輪観世音菩薩です。
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日本の詩人・小説家と知られる国木田独歩の有名な詩が刻まれた碑が設置されています。
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作家で小田原出身の牧野信一の作品の一節が刻まれた石碑です。
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今から約700年前の鎌倉時代後期に建てられた石造の宝篋印塔で、国の史跡と重要文化財に指定されています。この塔が建てられた精進池(しょうじんがいけ)周辺は、当時京と鎌倉を結ぶ道路の箱根越えのルートであり、厳しい山越えの道と、ところどころで噴煙は噴き出す荒涼たる風景からこのあたりは「地獄」と恐れられ、地蔵信仰の霊地となりました。精進池の周りにある石仏や石塔はほとんどが鎌倉時代後期にこうした地蔵信仰の中から建てられたもので、多くのお地蔵さんに見守られるようにして、多くの旅人が厳しい箱根越えの道を往ったのでしょう。
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藤沢橋交差点の近く、国道467号線沿いの高台にあります。通称は帯解観音と呼ばれています。(写真提供:藤沢市ふじさわ宿交流館)
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松田町の地域活性化や観光復興を目指し、江戸時代の農村改革の指導者として活躍した二宮尊徳の碑が設置されました。市民の憩いの場として賑わっています。
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発掘調査により、今から約1700年前、弥生時代から古墳時代の過渡期に造られた古墳群であることがわかりました。南関東における出現期古墳のあり方およびその時期の社会を考える上で重要と評価され、平成17年7月に国史跡に指定されました。見学の際は歩きやすい靴でお越しください。
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下鶴間ふるさと館には、市指定重要文化財の旧小倉家住宅の母屋と土蔵が復元されています。母屋は安政3年(1856)に建築されたもので、宿場の商家建築として県内でも数少ない建物です。
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高札場とは、幕府や領主による最も基本的な法令を書き記した「札」が掲示された場所で、各宿場のほか村々にも設けられていました。平塚宿の高札場には、隣り合う藤沢宿や大磯宿への公定運賃なども表示されていたといいます。
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初代歌川広重によって描かれた「東海道五拾三次 平塚・縄手道」の浮世絵はこのあたりからの眺めと言われ、背景に高麗山(こまやま)、手前に東海道の縄手道(畦道)と花水川が描かれています。
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鎌倉から藤沢方面へ通じる切通道で、中世のやぐらなどがあり、狭く急峻な古道の様子がよく残されています。
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ガス灯は、1872(明治5)年に高島嘉右衛門の「日本ガス社中」により、馬車道・本町通り等に設置・点灯され、これが日本における最初のガス灯となりました。柱部は英国グラスゴー市から輸入し、灯具は日本人職人により製造されたと言われています。
1986(昭和61)年、横浜市市民文化会館「関内ホール」の新築完成を祝って当時の型をモデルとしたガス灯が復元設置されました。 -
日本におけるアイスクリームは、1869(明治2)年に馬車道通りにて町田房造が氷水天を開業し、そこで売られた「あいすくりん」が始まりと言われています。「太陽の母子」は、1976(昭和51)年にアイスクリーム発祥記念像として設置されました。
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1890(明治23)年、この場所にあった横浜電話交換局で、横浜と東京間及び横浜市内における電話交換業務が、日本で初めて開始されたことを示す記念碑です。
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平安時代後期の武将源義家(八幡太郎)が見つけ詞に詠んだ山桜があり、その後「江戸見桜」と称されています。その他子どもたちがターザンごっこをしたといわれる「ターザンの木」、川崎市の緑地になった「末長熊の森緑地」があります。
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古墳の周溝は道路によって削られていますが、現状で直径17.5m、高さ3.7mの円墳です。橘樹神社の社伝によると、ヤマトタケルノミコトが東征のさいに、荒れる海に身を投じた后のオトタチバナヒメの衣と冠がこの地に流れつき、それをヒメの代わりとして、古墳に埋葬したと言われています。
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県指定史跡でもある子母口貝塚は、多摩丘陵で最も古い縄文時代早期後半(約7000年前)の貝塚で「子母口式土器」の標識遺跡としても知られています。貝塚とは古代の人のゴミ捨て場で、当時の人々が捨てた貝殻が積み重なったものでもあります。
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園内には縄文集落の雰囲気を再現し、土葺きと笹葺きの竪穴住居2棟を復元しているほか、周辺には竪穴住居廃絶後の窪地なども復元しています。
また、集落の終末期に登場する敷石住居のレプリカも屋外展示しています。
公園内の管理棟には小スペースながら勝坂遺跡出土品やパネルの展示を行っています。 -
かつての炭問屋、藤屋の跡地です。江戸時代、周辺農家で焼かれた炭は黒川炭と呼ばれ、江戸に出荷されていました。当時、木炭の輸送は水上輸送が主流でしたが、黒川炭は江戸に近いため、仲買問屋を通じて、江戸に陸送されていました。
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昔から村人から信仰の厚い不動さまであり境内の滝不動は谷津川の水源地となっています。
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紅谷町公園の一角にあるお菊塚は、江戸時代の怪談話『番町皿屋敷』に登場するヒロイン「お菊」の墓跡で、公園にひっそりと建っています。
今も賑わう故郷・平塚で、お菊は静かに眠っています。 -
亀井六郎の館跡があり、その子孫は昭和初期までここに居を構え暮らしていたといわれる場所です。
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精進池付近に、高さ3.2mの地蔵菩薩坐像「六道地蔵」を中心に、鎌倉時代から室町時代前期にかけて造られた石仏・石塔が点在しています。中世の地蔵信仰を物語る遺物として、国の重要文化財及び史跡に指定されています。
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水吞み地蔵は、浅間山林道を進み、いより峠の手前にあります。
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この橋の袂のある石碑の向かいより、大山道に入ります。
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旧東海道をややそれた「平塚の塚緑地」にある、「平塚の碑」です。一説では、ここが「平塚」の地名の由来の場所とされています。言い伝えによると、平政子という方がこの地で亡くなり、その柩を埋めて塚を作ったところ、塚の上が平らであったことから、里人がそれを「ひらつか」と呼び、これが地名となったといわれています。
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ふじさわ宿商店会は、江戸時代に旧東海道の宿場町としてにぎわった藤沢宿周辺に、新たに誕生した商店会です。既存の活動にとらわれない宿場町としての町づくりにも力を入れています。
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龍源院北側の段丘下から湧き出す湧水。昔から周辺6世帯の井戸水に代わる大切な生活用水とともに、非常用の防火用水としても、昭和31年に水道が引かれるまで利用されてきました。
また、大正初期頃から終戦頃までの約30年間、関係者が共同組織をつくり、湧き出し口下の土地45坪程を龍源院から借りて開墾し、わさびの栽培をしていたといわれています。 -
国指定史跡に指定されている仮粧坂は、鎌倉七口の1つで急峻な道が今も残る切通です。切通とは鎌倉と隣接地域との間の人の移動や物資の流通を盛んにするために、山や丘を切り開いて造られた道のことです。戦では切通を封鎖することで、鎌倉への敵の進入を防いだと考えられています。
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別名、惣左衛門本陣と言われた181坪の建物で、幕末には14代将軍家茂が京に上る際に宿泊しました。
明治23年(1890年)、詩人 佐藤惣之助がこの家で生まれ、大正から戦前にかけて活躍しました。 -
丹沢の峠、いより峠にある不動明王は、以前は道標の役割があったと言われています。