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座間警察署東側の段丘下にある境内の池の奥から湧き出す湧水。現在は、池を潤す水として利用されています。心岩寺では、境内から土器片が発見されたり、東側の台地上でも縄文中期の遺跡が発掘されたりと、先史時代から周辺住民の貴重な生活用水として利用されていたといわれています。また、湧出量が豊富であったため、寺の西側にあった後背湿地の水田にも利用されていたといわれています。
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北条氏による建立と言われています。境内には蛙石(かわずいし)と呼ばれる自然石があり、小田原の危機の際には鳴き声を発すると言われています。
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精進池近くにある元箱根石仏群の一部です。約700年前、鎌倉時代から室町時代前期にかけて数多くの石仏や石塔が造られました。これらの石仏・石塔の多くは、中世の地蔵信仰を物語る遺物として国の重要文化財に指定されており、周辺一帯も同様に国の史跡に指定されています。(写真提供:photolibrary)
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太平洋戦争終結直前の昭和20年8月5日、JR二宮駅(当時国鉄)周辺にはP51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。二度と戦争があってはならないと、永遠の平和を願う人々の浄財によって昭和56年(1981年)、二宮駅南口に、この像は建てられました。
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用水を供給するため、昭和16(1941)年に造られた久地円筒分水。平成10年に国の登録有形文化財となった久地円筒分水は、サイフォンの原理を応用して平瀬川の下をくぐり、円筒の切り口の角度で分水量を一定に調節するしくみです。(写真提供:photolibrary)
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国指定史跡に指定されている仮粧坂は、鎌倉七口の1つで急峻な道が今も残る切通です。切通とは鎌倉と隣接地域との間の人の移動や物資の流通を盛んにするために、山や丘を切り開いて造られた道のことです。戦では切通を封鎖することで、鎌倉への敵の進入を防いだと考えられています。
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江戸時代、三の丸には重臣の屋敷や藩の施設が置かれ、二の丸・御用米曲輪・南曲輪を大きく取り囲むように配置されていました。この三の丸には4つの出入り口が設けられており、そのうち、東の大手口、北の幸田口、南の箱根口は、堅牢な石垣で固めた桝形門となっていました。江戸時代初期の小田原城の大手口は箱根口でしたが、稲葉氏の時代に江戸に向く現在の場所に移されています。大手門跡の石垣の上には、大正時代に移設された時の鐘があり(現在の鐘は昭和28年製)、午前6時と午後6時に鐘を打ち、市民に時を知らせています。
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「陸軍桟橋(西浦賀みなと緑地)」は、ペリー来航や咸臨丸出帆など歴史の舞台となった浦賀港を一望できる公園です。港の東西を結ぶ渡船の乗り場も近くにあります。
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横須賀市にある「湘南妙義」の別名をもつ山、鷹取山に彫られた巨大な弥勒菩薩尊像です。横須賀市在住の彫刻家、藤島茂氏が昭和35年から約1年かけて製作しました。像高は約8m、像幅約4.5mです。
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川尻石器時代遺跡は縄文時代中期から晩期にかけての集落跡です。様々な種類の遺物とともに敷石住居などの礫石を多用した遺構もあります。
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昔から村人から信仰の厚い不動さまであり境内の滝不動は谷津川の水源地となっています。
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かつては排水路を横断するように架かっていた橋ですが、昭和6年頃に水路が埋められたため、現在は親柱だけが交差点脇の歩道に保存されています。
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今から約700年前の鎌倉時代後期に建てられた石造の宝篋印塔で、国の史跡と重要文化財に指定されています。この塔が建てられた精進池(しょうじんがいけ)周辺は、当時京と鎌倉を結ぶ道路の箱根越えのルートであり、厳しい山越えの道と、ところどころで噴煙は噴き出す荒涼たる風景からこのあたりは「地獄」と恐れられ、地蔵信仰の霊地となりました。精進池の周りにある石仏や石塔はほとんどが鎌倉時代後期にこうした地蔵信仰の中から建てられたもので、多くのお地蔵さんに見守られるようにして、多くの旅人が厳しい箱根越えの道を往ったのでしょう。
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旧東海道沿いの、江戸側の出入り口にあたる「江戸見附」から、京側の「京方見附」の間の約1kmにわたり広がっていた平塚宿。江戸口見附は、明治初期の駐日イタリア公使のバルバラーニ伯爵が母国に持ち帰った写真をもとに復元されました。
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龍源院北側の段丘下から湧き出す湧水。昔から周辺6世帯の井戸水に代わる大切な生活用水とともに、非常用の防火用水としても、昭和31年に水道が引かれるまで利用されてきました。また、大正初期頃から終戦頃までの約30年間、関係者が共同組織をつくり、湧き出し口下の土地45坪程を龍源院から借りて開墾し、わさびの栽培をしていたといわれています。
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日本の詩人・小説家と知られる国木田独歩の有名な詩が刻まれた碑が設置されています。
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源頼朝墓と伝わる石塔があり、かつて頼朝を弔った法華堂(墳墓堂)の跡地と推定されています。付近には北条義時を弔った法華堂の遺構も確認されており、合わせて国指定史跡に指定されています。
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江戸時代は文字どおり大きな石橋があり、脇街道の「溝の口・二子宿」として繁栄していました。
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精進池から少し離れた、芦之湯側に行った国道1号線沿いにある3基の石造五輪塔です。国の重要文化財に指定されています。
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登録有形文化財に登録されている戦前の藤沢を代表する呉服商です。
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能見堂は1661年~73年の間に領主であった久世大和守広之が再興した擲筆山地蔵院のことです。元禄時代、中国からの渡来僧、心越禅師が故郷の景色を偲んで、ここから見た金沢八ヵ所の勝景を漢詩に詠んだのが金沢八景の始まりと言い伝えられています。
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早野にある戒翁寺近くの御堂山(おどやま)に造立されている、土地の人から「殿様の墓」といわれる石造五輪塔(ごりんとう)です。
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亀井六郎の館跡があり、その子孫は昭和初期までここに居を構え暮らしていたといわれる場所です。
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約700 年前鎌倉時代終わりから室町時代前期にかけて、旅ゆく人々を救う仏として信仰された地蔵菩薩を祀る多くの石仏や石塔が造られました。国の重要文化財に指定されています。
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松田町の地域活性化や観光復興を目指し、江戸時代の農村改革の指導者として活躍した二宮尊徳の碑が設置されました。市民の憩いの場として賑わっています。
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鎌倉から藤沢方面へ通じる切通道で、中世のやぐらなどがあり、狭く急峻な古道の様子がよく残されています。
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石観音堂は、寛文5年(1665年)に明長寺の僧弁融によって開かれた天台宗明長寺の境外の仏堂で、本尊は石造りの如意輪観世音菩薩です。
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古墳時代の横穴墓群で、現在確認できるのは 5 基ほどです。
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吉野宿(よしのじゅく)は、江戸時代初期に定められた五街道「甲州街道(道中)」の宿場でした。「吉野宿ふじや」は旅籠「藤屋」として営まれていました。現在の建物は、明治29年の大火で焼失後、明治30年頃に建てられたもので、平成26年4月に市登録文化財に登録されました。建物内には、養蚕や炭焼に関する資料などが展示されています。
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1890(明治23)年、この場所にあった横浜電話交換局で、横浜と東京間及び横浜市内における電話交換業務が、日本で初めて開始されたことを示す記念碑です。
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初代歌川広重によって描かれた「東海道五拾三次 大磯・虎ヶ雨」の浮世絵はこのあたりの眺めと言われ、悲恋の涙を表す雨と松並木が描かれています。
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当麻は古くからの交通の要所で、昭和橋のたもとには、対岸の依知と結ぶ渡し船がありました。特に大山参りが盛んになってからは、当麻の渡しを利用する人が増え、当麻は宿場としてもにぎわいました。
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明治時代の小田原出身の詩人、井上康文の「梅」の一節が刻まれた石碑です。
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約700年前、鎌倉時代から室町時代前期にかけて数多くの石仏や石塔が造られました。これら石仏・石塔の多くは、中世の地蔵信仰を物語る遺物として国の重要文化財に指定され、また、周辺一帯も同様に国の史跡に指定されています。(写真提供:photolibrary)
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貝吹地蔵は、瑞泉寺裏山、天園ハイキングコース途中にございます。ハイキングコース入口よりお入り下さい。
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高札場とは、幕府や領主による最も基本的な法令を書き記した「札」が掲示された場所で、各宿場のほか村々にも設けられていました。平塚宿の高札場には、隣り合う藤沢宿や大磯宿への公定運賃なども表示されていたといいます。
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東海道宿場町に置かれた高級旅館で、参勤交代の大名のほか、公家、公用の幕府役人などが宿泊したのが「本陣」と呼ばれる大旅館です。平塚宿本陣は、建坪163坪で座敷数が20あり、門・玄関・上段の間が取り付けられていたと言われています。
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町の天然記念物に指定されているヤマザクラです。源頼朝が植えたという伝承があるとされています。
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藤沢橋交差点の近く、国道467号線沿いの高台にあります。通称は帯解観音と呼ばれています。(写真提供:藤沢市ふじさわ宿交流館)