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鶴見合戦

鶴見合戦

鎌倉幕府の北東の防衛拠点・鶴見

鶴見と鎌倉幕府の関わりは、寿永2年(1183)源頼朝が武蔵国師岡保内大山郷(現在の鶴見)を鶴岡八幡宮に寄進したという文書が残っていて、それが最初の記録と思われる。「鶴見郷」として正式に記録されたものとしては、『吾妻鏡』に次のような記述がある。
仁治2年(1241)、鎌倉幕府は大規模な武蔵野開発計画を練り、その視察のため、第4代将軍・藤原頼経をはじめ執権以下500人もの武士が鎌倉を発った。当時は陰陽道の方違えの風習があり、武蔵野は方角が悪く、一行は、いったん別の方角に出かけ、そこを本所として目的地に向かうことにした。このときに本所として選ばれたのが、幕府評定衆の一人、秋田城介安達義景の鶴見にある館(別荘)だった。
  • 館跡と思われるところ熊野神社周辺
一行は、途中で鶴見神社に立ち寄った、という記録が残っている。鶴見は古くから人々の往来や物資の流通が盛んな土地だった。

鶴見合戦(1)

元弘3年(1333)5月8日、上野国(群馬県)で挙兵した新田義貞は、兵を率いて鎌倉街道上の道を通り、鎌倉に向かった。北条氏に不満を持つ関東の武士たちも呼応し、武蔵国小手指原(埼玉県所沢市)、分倍河原(東京都府中市)での合戦に勝利した新田軍は鎌倉に迫った。
これを迎え撃つため、鎌倉幕府は三つの道から軍を出し、金沢貞将を鎌倉街道下の道の大将として、5万騎の軍勢を与え、上の道を鎌倉に向かう新田軍を、背後から攻撃しようとした。鶴見川付近で両軍は激突。金沢軍は敗れて下の道を逃げ帰った。
  • 鶴見川の末吉橋付近で戦ったと言われている
  • 鎌倉下の道と言われる道(現在は歴史と緑の散歩道として4.5㎞の散策路となっている)
  • スタート地点の兜塚~尾根をとおり上の宮迄続く道
5月21日、新田軍6万は、鎌倉に到達。翌22日、高時をはじめ北条一族は東勝寺で自害し、滅亡した。一方京では足利高氏等が六波羅探題の攻略に成功。鎌倉幕府は崩壊した。

鶴見合戦(2)

鎌倉幕府滅亡後は、年号が「建武」と改められ、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まった。しかし、武士のあいだで公家政治への不満が日増しに高まり、建武2年(1335)7月、信濃国に逃れていた北条高時の遺児・北条時行は鎌倉奪還の挙兵をし、武蔵国に進出し、女影原(埼玉県日高市)、小手指原(埼玉県所沢市)、府中(東京都府中市)で足利軍に勝利した。足利直義(尊氏の弟)を大将とした軍が鎌倉から出てきて、7月22日井出沢(東京都町田市)で戦ったが、激戦の末、直義軍は敗れ、7月25日、時行は鎌倉を奪い返した。
しかし、時行軍の鎌倉占領は長くは続かなかった。
これを聞いた足利尊氏は8月2日京で兵を挙げ、鎌倉から逃げてきた直義と三河で合流。進軍した尊氏は大井川、箱根、相模川で時行軍を打ち破り、8月19日鎌倉を奪還した。
この乱を「中先代の乱」と呼ぶのは、北条氏を先代、足利氏を後代として、その中間に一時的とはいえ、時行が武家の府である鎌倉の支配者となったためである。また時行の鎌倉占領がわずか20日余りであったため、これを二十日先代ともいう。
この一連の合戦のなかで、7月24日、直義軍の援軍として常陸国から来た佐竹貞義軍は、時行軍の一派と鶴見で交戦した。佐竹軍は敗れて、五男の義直が討死した。

※この原稿の執筆に際しては、鎌倉ガイド協会のHPに掲載されている「鶴見と鶴見合戦」を参考(一部引用)

記事提供:鶴見みどころガイドの会

(記事公開日:2022/3/18)

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