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松蔭寺、東福寺

松蔭寺、東福寺

「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」に描かれた二つの寺

「武蔵国鶴見寺尾郷絵図(むさしのくにつるみてらおごうえず)」(神奈川県立金沢文庫蔵)は、南北朝時代の建武元年(1334)に鶴見でおこった土地争いを記した相論絵図で、もともと鶴見区・仙鶴山松蔭寺(せんかくさんしょういんじ)(臨済宗建長寺派)に伝わっていたものである。鎌倉幕府が滅びた翌年、鎌倉の建長寺が末寺の寺領を確保するため裁判をおこしたときに作らせた絵図ではないかと考えられている。
絵図には境界を示す線、台地地形と谷地形、堂舎など建物と集落、鶴見川と溜池、街道・ミチと鶴見宿、田畠の耕地、地名、人名などが極めて豊富に記載されている。往時の鶴見地区の姿が生き生きと伝わる本図は、中世の関東地方における農業と集落、水利と耕地を具体的に描く唯一の絵図として、平成18年に国の重要文化財に指定された。

松蔭寺

  • 武蔵国鶴見寺尾郷絵図(南北朝時代、国重要文化財、神奈川県立金沢文庫蔵)
この絵図の中心に描かれた寺が、鎌倉の巨福山建長寺(臨済宗建長寺派大本山)30世枢翁妙環仏寿禅師(すうおうみょうかんぶつじゅぜんじ)が、同年(1334)隠居所として創始した正統庵(しょうとうあん)(後、松蔭寺)で、江戸時代に現在の東寺尾の地に移転するまで、諸嶽山總持寺(曹洞宗大本山)が現在ある辺りに建っていたという。松蔭寺の寺伝によると、鶴見合戦(北条時行・中先代の乱)で、軍勢が鶴見に迫った際、寺にも兵火がかかり、本尊を抱いて逃げたという。今でも本尊を開帳しないのは、そのとき焼け焦げのためという。
  • 松蔭寺本堂
当寺は数度の火災のため什宝旧記を失ってその沿革が判然としていない。仏寿禅師の墓所があり、5月3日に、即身成仏した里見義高の「入道まつり」が、江戸時代から続いて行われている。鶴見七福神(布袋尊)も祀られる。如来坐像(東京国立博物館寄託)は、飛鳥時代作成の横浜市内最古の仏像である。西寺尾八幡宮の本尊として祀られていたものが、明治の神仏分離令で松蔭寺に移された。

東福寺

  • 東福寺の山門
  • 子生山の扁額
「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」に「子池堂」と記載されている建物は、現在の子生山(こいけざん)東福寺(真言宗智山派)である。東福寺は、京都・醍醐寺三宝院の勝覚僧正が自らつくった如意輪観音像を大阪湾から流し、僧正が夢のお告げに従い、生麦の海岸に流れ着いた観音像を拾い上げ、堂に納めて開創(寛治元年(1087))したと伝わる。
この時代の堀河天皇(第73代)には皇子が授からず、勝覚僧正の弟子勝栄が東福寺の観音に、祈れば必ず子が授かるであろうことを告げ、康和2年(1100)藤原道房を勅使として誓願された。3年後、後の鳥羽天皇(第74代)となる皇子が誕生した。長治元年(1104)、堀河天皇より子生山東福寺の号と宸筆の勅額を賜った。また鎌倉幕府御家人の稲毛重成も男子の生まれることを祈願して願いが叶い、美田・山林を寄進し堂宇を建てた。
以来子育観音として広く知られるようになり、江戸時代にはとくに参詣者が多く、門前では子育まんじゅうが売られ、鶴見の名物の一つであった。境内には大師堂、新四国八十八ヶ所霊場碑、生麦の海中から引き揚げられたという「いぼとり地蔵」等あり、鶴見七福神(毘沙門天)も祀られる。
なお、大正3年(1914)、平岡廣高による日本最初の児童遊園地「鶴見花月園」が開業するが、敷地は東福寺の境内地8万余坪が貸し出されたものである。

鎌倉扇ガ谷の海蔵寺

  • 鎌倉扇ガ谷の海蔵寺入口

鳥羽天皇(上皇)に関わる伝説を紹介する。鳥羽上皇がその美貌と博識で寵愛したという女性・玉藻前(たまものまえ)は、実は大陸から日本国を滅ぼそうと渡来した妖狐(九尾の狐)の化身で、陰陽師安倍泰成に正体を見破られた。逃げた先の下野国那須野の地で、三浦介・上総介らの討伐軍に成敗され石となった。しかし怨念のこもる石は毒を発して人や生き物の命を奪い続けたため「殺生石(せっしょうせき)」と呼ばれた。その後鎮魂に来た多くの高僧も倒れたが、至徳2年(1385)に源翁(げんのう)禅師(心昭空外)によって打ち砕かれた。源翁禅師は總持寺二祖峨山禅師の弟子であり、鎌倉扇ガ谷の扇谷山海蔵寺(臨済宗建長寺派)の再興(応永元年(1394))開山である。

※参考資料:鶴見合戦―「太平記」にみる横浜― 横浜市歴史博物館企画展図録(2007.10.7刊)

記事提供:鶴見みどころガイドの会

(記事公開日:2022/3/18)

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