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三浦半島随一の桜の名所 衣笠山公園【歴旅コラム】

三浦半島随一の桜の名所 衣笠山公園【歴旅コラム】

かながわの花の名所100選 衣笠山公園

  • 衣笠山公園のさくらまつり
衣笠山公園は、日本の桜の名所100選、かながわの花の名所100選に選ばれており、三浦半島随一の桜の名所として知られている。

この辺りは衣笠山と呼ばれており、標高134mで登山口はいくつかあるが、桜を眺めながら登るのには、衣笠十字路からバスで「衣笠山公園」で下車し桜を眺めながらゆっくり登るのがおすすめである。

この公園は、古くは平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した「三浦一族」の小矢部方面の支城から、敵の情報 を衣笠城へ報告する中継のための「狼煙台」が設けられていたと伝えられる。衣笠山公園が桜の名所になったのは、明治37年(1904年)に日露戦争が起こり、三浦半島からも多くの人が徴兵され戦死された。明治40年(1907年)4月18日、戦没者の霊を慰めるために「芳名不朽」の文字を刻んだ記念塔を建設し、数百株の桜樹と各種ツツジを植えた公園とした。以降、三浦半島隋一の桜の名所となっている。
  • さくらまつりの様子
桜樹の数は現在では約2,000本、大部分は「ソメイヨシノ」でこの品種は江戸期染井村、現在の東京都豊島区駒込の植木職人の手で「オオシマザクラ」と「エドヒガンザクラ」を交配して誕生したもので、明治以降全国各地で栽培されている。

これは、実から育て繁殖する実生でなく、全て同じ木から挿し木で生み出されるクローン桜である。また、木の寿命は数十年と短く、葉よりも先に花が咲く「ソメイヨシノ」は全国の8割を占めている。

戦後の復興の象徴として植えられた「ソメイヨシノ」も老木が多くなり、衣笠山公園でも世代交代の桜が植えられている。

「ソメイヨシノ」の他に「オオシマザクラ」も多く植えられているが、この桜は「横須賀市の木」である。「オオシマザクラ」は野生種の一種で成長が早く再生力が強いといわれる。また、桜餅の葉に使われることから「モチザクラ」とも呼ばれる。
衣笠山公園中段の広場入口に「大介桜」と呼ばれる老木がある。この老木がいつ頃から誰いうとなく「大介桜」と呼ばれるようになった。それは、三浦一族の三浦大介公が 89 歳という長寿であったことにちなみ、この山が衣笠山と呼ばれる前は「鞍掛山」といわれ、この老樹を「大介桜」と呼び大切にしていたが、さすがの「大介桜」も長年の風雪に耐えかねたか、いたみもひどくなり伐採の計画があるという。 衣笠山公園に2代目の「大介桜」が見られる事を待ち望むものである。

134mの頂上には展望台が設けられており、天候が良ければ東京湾が一望でき、房総半島西岸を望むことができる。他に、「わんぱくの森」、「わんぱくの水辺」、「ほたるの里」などがある。
  • 忠犬タマ公の碑と像

公園内にはいくつかの記念碑があるが、その一つに「忠犬タマ公の碑と像」がある。この犬は新潟県中蒲原郡村松町(現新潟県五泉市)の、苅田吉太郎さんの飼い犬だったが、昭和9年(1934年)と11年(1936年)の2回にわたり、雪崩に巻き込まれた主人の苅田さんを助け出したという忠犬ぶりが伝えられると、横須賀在住の新潟県人が感動し、この地に記念碑を建てたという。現在でも「タマ公」の故郷新潟県五泉市とは友好関係を保っている。碑文は現環境大臣小泉進次郎衆議院議員の曽祖父小泉又二郎氏である。また、像の碑文は現環境大臣の小泉進次郎氏である。

他に、この三浦半島の発展に寄与した「小川茂周(おがわしげちか)」の記念碑もある。小川茂周は三浦郡初代郡長で、教育をはじめ多くの半島の発展に力を注いだ人である。

現在横須賀市役所のある町名は「小川町」であるが、山に囲まれ人や物の移動に苦労した明治初期、海を埋め立てて「小川港」を造り、東京、横浜方面からの輸送に大きく貢献した。その彼の名を残すため、「小川町」と名付けられた。

記事提供:NPO法人 よこすかシティガイド協会

(記事公開日:2020/12/18)

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